東京そぞろ歩き

カテゴリ:歴史散歩( 9 )


東京アンダーグラウンド 浄閑寺

 生まれては
 苦界 死しては
 浄閑寺


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 荒川区三ノ輪にある浄閑寺は、通称「投げ込み寺」。吉原遊廓から500mほどの場所にあって、その通称どおり、吉原の遊女が死んだとき、投げ込まれるようにして埋葬されたお寺だ。ここに埋葬された遊女の数は2万人を超え、その死亡平均年齢は21.7歳だとか。

 年季奉公として田舎から連れて来られ、廓から外に出ることも許されずに客を取り、死んだらこの浄閑寺に投げ込まれる-そんな若くして亡くなった遊女が2万人もここに眠っているかと思うと、…う~ん重たいよなあ。平均年齢21.7歳ってのもちょっと若すぎないか?しかし、それもたかだか200年くらい前の話なんだよね。

 当然、亡くなった遊女たち一人ひとりにお墓があるわけでもなく、新吉原総霊塔にその遺骨が安置されている。

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 ちなみにこの浄閑寺、あのアラーキー大先生の菩提寺でもある。アラーキーの実家は浄閑寺のすぐ近所だったそうで、このお寺の境内はアラーキー少年の格好の遊び場だったらしい。上の写真の総霊塔によじ登ってターザンごっこをしたり、当時まだ鍵が付いていなかった総霊塔の遺骨置き場から、遊女さんたちの骨をかき出して、それを投げたりして遊んでたそうだ(^^;

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 今はしっかりと鍵が付いてました。

 境内の片隅には、角海老楼の遊女、若紫の墓がある。明治の頃の遊女で、22歳で亡くなっているが、ちゃんとお墓のある遊女は逆に珍しい。

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 この若紫、永井荷風の「断腸亭日乗」によると、楼内一の遊妓でその心も人柄もとてもやさしい、素晴らしい遊女だったそうだ。あと5日で年季があけ、男と所帯を持つことも決まっていたそうである。しかし、幸せを目の前にして悲劇が襲った。その日、たまたま登楼してきた男に刺殺されてしまったのだ。

 その犯人の男、別の店の、想いを募らせていた遊女と無理心中をしようとして吉原にやってきたが果たせず、ヤケクソになって角海老に行き、たまたま相手をした若紫に対して凶行に出たんだそうだ。なんとも痛ましい話だ。

 その若紫のお墓には今でもちゃんと花が手向けられている。角海老の店はまだ吉原にあるし、関係者の人が花を供えにやってくるんだろうか。そういえば、夏場には「角海老宝石」と書かれた風鈴が、お墓の横で揺れてたなあ…
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by tigers00 | 2007-02-24 00:31 | 歴史散歩 | Comments(0)

東京アンダーグラウンド 小塚原刑場跡

 江戸時代、江戸の町には2ヶ所の処刑場があった。そのうちのひとつがこの小塚原(こづかっぱら)の処刑場だ。お江戸260数年の間に、この地で処刑された罪人の数は約20万人にものぼる。

 今は小塚原という地名はなくなって、現在の住所表記だと南千住になる。ここにかつては109m×54mの処刑場が広がっていた。今、その辺りには延命寺というお寺が建っている。

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 右手と左手に鉄道の高架がかかってて、その中にすっぽりと閉じ込められているような、なんか東京の中の異空間という感じだ。オレは霊感についてはほとんど感じることもないんだけど、鋭い人だと何か感じるかもなあ…

 境内に、小塚原刑場跡の説明版があったので、ちょっと抜粋してみる。

「…これらの大罪人が伝馬町の牢獄なり小塚原の刑場に於いて仕置きとなるときは、その遺体は非人頭に下げられ、この境内に取捨となった。故に埋葬とは名のみであって、土中に浅く穴を掘り、その上にうすく土をかけおくだけであったから、雨水に洗われて手肢の土中より露れ出ること等決して珍しくなく、特に暑中の頃は臭気紛々として鼻をつき、野犬やいたちなどが死体を喰い、残月に鳴く様はこの世ながらの修羅場であった…」

 な、な、な、なんか背筋が寒くなってきたんですけど…。っていうか、この説明版、ちょっと状況描写がリアルすぎだ。

 しかし、気を取り直して周囲を観察してみると、ちょっと異形のお地蔵様や、首がゴロンとなったお地蔵様なんかがいらっしゃった…

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 …もう、これ以上気を取り直せません。延命地蔵様の前で手を合わせ、「南無阿弥陀仏」を心の底から唱和して、この場を立ち去ったのでした。ふう~。
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by tigers00 | 2007-02-12 00:03 | 歴史散歩 | Comments(2)

江戸時代の両国広小路

 前回UPした両国広小路。今じゃすっかり普通のオフィス街。では、江戸時代はどんな感じだったかというと…
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 これは江戸東京博物館にある当時の模型。この人形がとてもよくできていて、ひとつとして同じものはないそうだ。

 江戸の庶民はここで川開きの花火や納涼の舟遊び、見世物小屋や茶屋などで娯楽を楽しんだそうです。
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by tigers00 | 2006-03-11 23:15 | 歴史散歩 | Comments(0)

両国広小路

 両国橋の西のたもとが、かつての両国広小路。今でこそ盛り場といえば、新宿歌舞伎町、渋谷、銀座…といったところだが、江戸時代の盛り場といえば浅草と両国広小路が双璧だった。
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 今ではまるで面影なし!浅草は今でもその頃の歴史をつないでいるけど、ここはすっかり普通のビル街に変わっている。

 江戸時代の盛り場といえば、なんといっても見世物小屋。今のこの風景を見る限り、ここに見世物小屋が並んでいたなんてちょっと想像できないんだけどね。

 で、その見世物小屋、どんな見世物を興行してたかというと…
 1.「熊女」や「達磨男」などのいわゆる身体的不具者や障害者を舞台に上げたもの
 2.珍獣の見世物
 3.奇術や軽業、曲芸なんかを見せるもの
 4.からくりやら籠細工といった細工見世物
 と、だいたいこんな感じに分別される。

 ロングラン興行になって大人気だったのがラクダの見世物。まあ、当時は滅多に見れるもんじゃないですもんねえ。さらに、ラクダを見ると夫婦や男女が仲良くなるとか、ラクダの毛が魔を払うとか、挙句の果てにはラクダの尿が病気に効くとか、いろんな話が流れたそうだ。実際、ラクダの尿を飲んだ人もいるんだろうなあ…

 そしてそして、「これは絶対に見たい!」ってオレが思ったのが

 「曲屁男」

 曲屁男だよ、曲屁男。この人、どんな技を持っていたかというと…犬や鳥の鳴き声、三味線なんかの楽器の音、花火や水車、歌曲まで「屁」で奏でたそうだ。すごい!まさに名人芸!その見事な屁芸は前代未聞の大評判を呼んだそうで、小屋の前は連日大行列だったとか。

 この芸、ちゃんと技法があるそうで、永六輔さんの著書の中に記述があるらしい。今でもこの芸、受け継がれてるのかなあ。まあ、テレビじゃ放送できないだろうけどね。

 ほかにも電撃ネットワークも真っ青の芸をする芸人もいたらしい。すごいのは「眼力太郎」。どんな芸かというと…いざという時に力を入れると、目玉が蟹のように飛び出してくる。それに小石を糸でくくってぶらさげ、さらには重箱や徳利などをぶらさげたそうだ。

 目でそんなもんぶらさげて大丈夫なのか!?見てみたいけど、気持ち悪い。この芸も今できる人っていないだろうなあ。江戸時代、恐るべし! 
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by tigers00 | 2006-03-05 23:04 | 歴史散歩 | Comments(0)

両国橋

 柳橋の南、隅田川にかかっているのが両国橋。隅田川にはこの両国橋をはじめたくさんの橋が架かっているが、江戸時代初期に架かっていたのは、はるか北、今の足立区にある千住大橋だけ。江戸の町の防衛上、幕府が橋を架けるのを認めなかったからだ。

 そんな江戸幕府の方針を大転換させたのが、明暦の大火だった。明暦3年(1657年)1月18日に発生したこの火事は、たった3日間で江戸中を灰にした。江戸城の本丸までが焼け落ちて、この火事による死者は約10万人!その頃の江戸の人口が70万~80万人くらいだからすごい割合だ。

 で、そのとき一番犠牲者が多かったのがこの隅田川の川原のあたりで、ここだけで2万3千人以上が亡くなったそうだ。

 こりゃ、ちゃんと防災を考えんといかん!ということで翌年架けられたのがこの両国橋。橋ができたおかげで、本所や深川も発展していった。
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 今、橋のありがたさなんてしみじみ感じたこともないよなあ。けど、この橋が架かった当時は、ここら辺の人にとってはとてもありがたいことだったんだろう。この両国橋のあとにできた新大橋の完成後、深川に住んでた松尾芭蕉はこんな句を詠んでいる。
 
 「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」 
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by tigers00 | 2006-03-05 00:17 | 歴史散歩 | Comments(0)

柳橋

 260年にも及ぶ江戸時代の中で、一番平和で享楽的だったのは文化・文政時代(1804年~1829年)だったのではないか。江戸の町では町人文化が花開き、いろんな娯楽が生まれている。

 さて、そんな時代だからこそ、くだらない?催しもおこなわれた。文化14年3月23日、今でいう台東区柳橋の料亭万八楼でおこなわれた大酒大食い大会なんかもそのひとつ。TVチャンピオンみたいな企画だけど、この頃にはそんなムダなことをするくらい食糧事情がよかったんだろうね。

 参加人数は約200人。酒組・飯組・菓子組・そば組に分かれて競い合った。優勝者の記録を見ると、これが結構すごいもんで…。

 飯組優勝は三島町の三左衛門さん(47)。53杯と醤油2合を記録。菓子組は神田の丸屋勘右衛門さん(56)。まんじゅう50個、ようかん7本、薄皮餅30個…う~ん、書いてて胸焼けしてきた。そば組は池之端の山口屋太兵衛さん(38)。63杯を食ったそうだ。

 で、なんといってもすごいのは酒組。優勝者は芝口の鯉屋利兵衛さん(30)。飲んだ量は三升入りの盃6杯。え~っと、一升がだいたい1.8Lだから…なんと32.4L!!死んだだろ、この人。その場で。

 オレは酒はほとんど飲めないほうなんでよく分からんが、そんなに飲めるもんなの?当時はもちろんビールなんてないから日本酒とか焼酎とかだろうし。その頃の日本酒って、今より薄かったんかなあ。
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 写真は、この大会を主催した万八楼を買い取って改名したといわれている亀清楼。江戸から明治にかけてわんさかあった柳橋料亭の最後の生残りだ。

 柳橋周辺はすっかりビル街になっている。その柳橋から神田川を見下ろすと、屋形船が係留されている。周囲はすっかり変わってしまったけれど、屋形船の伝統は江戸時代からずっと受け継がれているようだ。
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 橋のたもとのプレートに、正岡子規の句が埋め込まれていた。

 春の夜や 女見返る 柳橋
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by tigers00 | 2006-02-26 13:22 | 歴史散歩 | Comments(4)

笠森お仙

 今からざっと240年ほど前、江戸の谷中にひとりの町娘が住んでいた。名前はお仙。笠森稲荷神社の境内にある「鍵屋」という水茶屋の看板娘だった。

 そんな何の変哲もない町娘が歴史に名を残す人物になるのは、ひとりの浮世絵師との出会いからだった。

 浮世絵師の名前は鈴木春信。当代きっての人気浮世絵師だ。その春信がお仙のことを気に入って、自分が描く美人画のモデルにしたのがそもそもの始まり。この美人画が売り出されるや飛ぶように売れ、お仙はあっという間に江戸中のスーパーアイドルになったのだった。

 そりゃ、美人画に描かれてる美人が谷中の水茶屋でウエイトレスをしてるっていうんだから、実物を見たくなるのはまぁ当然でしょ。テレビも写真もない時代なだけに、逆に想像力が働いて、「どうしても実物が見たい!」ってなったんじゃないかなあ。鍵屋には連日、お仙見たさの客が詰め掛けて大変な賑わいだったとか。

 で、お仙の人気の凄さはそれだけにとどまらない。なんと、手ぬぐいやらすごろくやらのキャラクターグッズが売り出され、お仙を題材にした狂言まであったほど。しかし、お仙すごろくってどんなんだ…?

 吉原や島原の花魁のようなクロウト女じゃなく、普通の町娘がこれだけのスーパーアイドルになったのはかなりすごい。細い柳腰におちょぼ口とうりざね顔って、今の時代だと美人って言えるんかなあ?と疑問だけど。

 しかし、そんな人気絶頂の時期に、お仙は忽然と姿を消してしまう。お仙見たさの客が鍵屋に行っても、いるのはオヤジだけ。オヤジもそのことに関して何も答えなかったんだろう。そんなわけでお仙がどこに消えたのか、いろんな説が飛び交った。やれ、駆け落ちしただの、オヤジがお仙を殺しただの…。お仙の駆け落ちを題材にした錦絵まで売られる始末。

 実際はこっそりと結婚していたのだった。結婚したって言ったらそれはそれで大騒ぎになったんだろうなあ。相手は幕府お庭番の倉地正之助という人物。お庭番といえば忍者ですね。お仙としては相手が直参旗本なんだから素敵な玉の輿、倉地にしてみれば江戸中のスーパーアイドルとの結婚だし、そりゃどちらも幸せだったんでしょうなあ。

 その、お仙が働いていた水茶屋の鍵屋があった笠森稲荷神社は今はなく、跡地には巧徳林寺というお寺が建っている。
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 さすがに、その頃の喧騒を感じさせるものはなにひとつ残ってなかった。

 
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by tigers00 | 2006-02-12 00:34 | 歴史散歩 | Comments(3)

天王寺五重塔跡

 谷中にある天王寺にはその昔、立派な五重塔が立っていた。1644年に建てられ、一度は消失したものの、1791年に再建されて1957年(昭和32年)までここに建っていた。関東大震災も太平洋戦争も乗り越えてきたのに、この年の7月6日、火災により消失。焼け跡からは男女二人の焼死体が見つかった。なんと、火災の原因は放火心中だったらしい。
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 今はちょっとした公園になっていて、残ってるのは土台だけ。再建の声も上がってはいるが、費用は総額10億円!しかしまあ、なんで五重塔に放火して心中したんだろ?なんでも、不倫清算のための心中だったらしいけど…。この二人、地元の人間じゃないんだろうなあ。谷中の自慢だった五重塔を不倫心中のために燃やしちゃうなんて。ちなみに、町の人はこの事実を知ってたいそう怒ったそうです。
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by tigers00 | 2006-02-05 01:19 | 歴史散歩 | Comments(2)

子規庵

 台東区根岸のあたりは、江戸時代、「根岸の里の侘び住まい」といわれるような静かな町で、文人墨客の隠棲の地だった。明治になっても、やはり文人が多く住み着いていた。その中でも、一番有名なのが正岡子規。もちろん、歌人として有名なんだけど、野球が日本に輸入された当初から野球に熱中してたって話も有名で、その功績により、「野球殿堂入り」している。

 正岡子規は、明治35年に数え年36歳で結核で死んでいる。明治27年から亡くなるまで住んでいたのが、ここ根岸にあるこの木造平屋住宅だ。
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 昔懐かしい感じの建物で雰囲気はよく残っている。子規が亡くなったうちは太平洋戦争のときに焼失しており、今あるこの建物は、戦後再建されたものだ。残念ながらこの日は休みで中には入れなかったんだけど。

 かつては文人墨客が愛した閑静な住宅街・根岸も昔の話。このように、ほんのちょっとだけ名残を残してるぐらいで、周りの風景はなんとな~く怪しげ。それもそのはず、このあたりは地名は根岸でも最寄り駅は鶯谷。鶯谷から徒歩5分くらいの場所なのだ。鶯谷といえば、もちろんラ・ブ・ホ♪ ここ子規庵も、そんなラブホテルに囲まれるようにひっそりとたたずんでいるのでありました。子規がこの風景を見たらどんな歌を詠むんだろうなあ…
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by tigers00 | 2006-01-15 19:04 | 歴史散歩 | Comments(2)