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東京そぞろ歩き

赤坂散歩 その3

 乃木邸から檜坂を経て赤坂氷川神社へ。この神社は、8代将軍徳川吉宗が自らの産土神として尊崇し、将軍就任後の1730年に現在地に移して社殿を造営したとのこと。元禄(1688~1704)の頃には、ここに備後三次の浅野家藩邸があり、大石内蔵助の「南部坂雪の別れ」の舞台になったといわれている。

 氷川神社についての描写を『赤坂散歩』より抜粋してみる。
「石畳を踏みつつ社殿にむかうと、古い樹々が元気よく梢をのばしていて、まことに気分がいい。拝殿・本殿はよほど奥まっていて、都の文化財になっている。(中略)この赤坂氷川の拝殿・社殿は朱塗をかけてところどころ剛い金具を打っただけで、じつにすっきりしている。
 境内も、閑寂でいい。絵馬堂もあり、みこしなどをおさめた蔵などもあるのだが、いずれの建物も気品がある」

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 ここはほんとに東京の中心部か?と思うほどに静寂だ。ここから歩いて15分で六本木ヒルズだが、そのあたりの喧騒がウソのよう。神社の社務所?も、昭和40年代ぐらいの築じゃないかと思われるくらいの味がある。境内は、散歩をする人、ベンチで昼寝をする人などのんびりとした感じだ。近所の子供だろうか、女の子が自転車の練習をしている姿が印象的だった。

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# by tigers00 | 2005-03-27 22:36 | 散歩

赤坂散歩 その2

 豊川稲荷をあとにして、青山通りを西に向かう。豊川稲荷のすぐ隣が赤坂御用地であるために、あちこちで警官の姿を見かける。しかし、単なる警備というのもヒマそうだ。

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 しばらく歩くと左手に高橋是清翁記念公園が見えてくる。ここは、この高橋是清の邸宅があった場所だ。高橋是清は第20代の首相ではあったが、大蔵大臣の在任期間のほうがずっと長い。財政家だったのだろう。昭和11年2月26日、有名な2.26事件の際、反乱軍兵士に自宅を襲撃され殺害されたのがこの公園ということになる。大蔵大臣として、インフレ抑制のため軍事予算を削ろうとし、軍部の恨みをかったがゆえの惨劇だったようだ。享年は83歳だった。

 「赤坂散歩」から抜粋してみる。
『この明治官僚の生残りの老政治家は、市井の人にひどく好かれていた。名利に恬淡としていたし、率直で、天真無礙(てんしんむげ)の人柄をもっていた。顔までがそうだった。
 若いころから滑稽なほどの丸顔で、老いるとダルマさんを思わせた。顔ひとつで縁起がいいという印象をひとびとに与えたというふしぎな人物である。(中略)
 数年前から軍の中に‘高橋を殺せ’という声があり、死の二年前に乞われて何度目かの大蔵大臣になったときも、ひとが、そのお歳でなにもお引き受けにならなくても、といった。高橋は、「自分は死ぬ気だ」と、いったという』

『その高橋邸跡の公園を歩いて、やがて樹林の奥に入ると、石段が十段ほど小高くなった土壇があって、土壇の上に羽織袴の小さな老人が腰をおろしてすわっていた。むろん、銅像である。
 是清は肉体的威容を感じさせる人でないからこそ魅力的なのだが、それだけに、ほとんどの日本人と同様、銅像にはむかない。思いもよらず銅像にされて、気の毒なようなものである』

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 これがその銅像である。こうやって見ると、これはこれで銅像として悪くないと思うのだが、どうだろう。昭和11年といえば、まだ70年ほど前の話だ。そこでおこった惨劇あとが、公園として整備され人々の憩いの場となっている。今もしどこかの政治家が自宅で殺害され、そのあとが公園になったとしたら…なんか生々しくて生理的に受け入れられそうにない。しかし、70年もの時間が経つと、すっかり「歴史」になっている。ここにそんな生々しさはまったく感じなかった。

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 青山通りをさらに西へ行き、外苑東通りを左折する。しばらく歩くと見えてくるのが乃木希典の旧邸である。乃木希典は明治天皇が崩御したあと、奥さんと一緒に殉死した明治の軍人である。この人を幼少のころに教育したのが玉木文之進というひとで、吉田松陰を教育した人でもある。強烈に「私」を排除し、「公」のために生きるという教え方をした人である。吉田松陰など、講義中にちょっと顔をかいただけで殴り飛ばされたらしい。痒いところをかくという行為は「私」事であるからだという。明治天皇の死に殉じるという思想は、子供の頃のこういった教育から成り立ったものなのだろうか。

 「赤坂散歩」より、乃木邸の描写を抜粋してみる。
『明治三十五年、希典は休職中の陸軍中将だったが、はじめてこの屋敷を自分の設計によるものに建てかえた。三十代の終りにヨーロッパに行ったとき、フランスの連隊本部をみてその簡素さと機能のよさに感心し、当時のスケッチをもとにして建てかえさせたのである。
 要するに、木造洋館の事務所(連隊本部)を縮小したようなもので、住むのに快適ではなさそうである。ただし、自ら奉じることを禁じていたこの人にとって、よくその思想を表現した建物といっていい』

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 この日訪れていた人の中には、外国人の姿も目立った。外国の人にも乃木将軍は有名なのであろうか?殉死という死に方をした乃木の姿は、彼らの目にどういう風に映るのであろう。
 乃木邸は、往時のままそのままに残されている。外から建物の中を覗くような感じで見学することができるが、中に立ち入ることはできない。しかし、外から窓ガラス越しに将軍と奥さんが殉死した部屋まで見ることができる。高橋邸跡の公園では感じなかったが、ここはさすがに生々しい。人が自殺した場所を覗き見てるわけだから、なんともいえない気持ちになった。

# by tigers00 | 2005-03-27 22:00 | 散歩

赤坂散歩 その1

 日曜日はとてもいい天気だった。こんな日にうちに籠っているのはもったいない。そう思って、以前から散歩してみたいと思っていた赤坂へ行ってみることにした。

 昔から、一番好きな作家は司馬遼太郎である。高校生の頃、初めて司馬遼太郎の長編小説「関ヶ原」を読んで以来、ハマってしまった。自分が、大学の第一志望を史学科にしたのは、司馬遼太郎の本との出会いがとても大きかったからだ。著作は多数あるが、中でも紀行文の「街道をゆく」は素晴らしい。訪ねた先の歴史に触れつつ、その土地に生きた人々の姿をくっきりと浮かび上がらせてくれる。自分が日本人に生まれた幸せを十二分に味合わせてくれるのである。その、街道をゆくの33に赤坂散歩がある。それを下敷きにしつつ、散歩してみることにした。

 バイクを停めて、まずは弁慶掘へと向かった。赤坂プリンスホテルや首都高速に覆いかぶされているようで、どうも窮屈な感じのする堀である。そのあたりの描写を、司馬遼太郎の「赤坂散歩」より抜粋してみる。

『都心で水面を見つけるのは、容易ではない。
 その点、弁慶堀の水は目をやすめてくれる。首都高速4号線という高架道路に組みしかれながらも、紀尾井町あたりの景観にうるおいをあたえているのである。ただ、わずかな面積でしかない。(中略)
 橋畔を降りると、ボート屋さんが、店をひらいていた。日曜日の晴れた午後だというのに、客の影がなかった。
 主人は40代のおだやかな容貌の人で、客がいないのにいらだちもせず、
 「時勢が変わったんでしょう。むかしは、日曜日の行楽というと、映画をみて、ボートを漕ぐぐらいのものだったんですけど」(中略)
 他人ごとのようにいうのがいかにも江戸風で、感じがいい。』

 この日も司馬さんが訪ねたときと同じ、よく晴れた日曜日の午後だった。確かにお客の姿は少ないが、それでもボートが2艘ほど水面に出ている。どちらも男の人がひとりで乗っていた。ん~、カップルや家族でっていうのなら分かるが、男ひとりなんて…と思っていたらどうやら釣りのようだ。ボート屋はなかなか洒落た感じの店構え。釣り客で繁盛しているのだろうか。

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 次に、紀尾井町通りを北上して清水谷公園へ行ってみる。明治11年5月14日、この付近で大事件がおきた。当時、政府の最高権力者であった内務卿大久保利通が、石川県士族島田一郎ら六人の暴漢に襲われ殺害されたのだ。大久保利通は渾身これ政治家といった凄みのある人だったということだ。今の政治家たちとはまったく違っていたのだろう。

 以下、「赤坂散歩」からの抜粋。
『大久保は兇徒たちが馬車に飛び乗ってきたのをみて、
「待て」
 と大喝して、袱紗に書類をつつみ直したといわれる。
 その瞬間、兇刃がかれの体に加わり、ほとんど即死の状態だった。(中略)
 清水谷公園の「哀悼碑」はまことに哀悼という文字にふさわしい。
 その後、大久保ほどに格調の高い人格と識見と実行力をそなえて、しかも清廉だった首相は近代史の中で見出すことは、困難である。』

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 紀尾井町通りを南に戻って弁慶橋を渡り、豊川稲荷へ行ってみる。ここはなんでも芸能人の信仰が厚く、初詣にはジャニーズのお歴々もやって来るという。初詣に来たことないからほんとかどうかはわかんないけど。敷地内に入ってみてびっくりしたのは紅白ののぼりのすごいこと。所狭しと立ち並んでいる。ここのご本尊は荼枳尼天(だきにてん)で、大岡裁きで有名な大岡越前守忠相が崇敬して自宅に祀っていたとのこと。その子孫が庶民に参詣を許したのが起こりだそうだ。

 以下、「赤坂散歩」。
『赤坂に高名な豊川稲荷がある。
 稲荷とはいえ、風変わりなことに、寺なのである。もっとも形は神道の稲荷信仰と一体になって習合しているものの、本尊は、インドの神である。
 それも、荼枳尼天という女身の夜叉神である。空海がもたらした密教体系の中に存在し、もとはインドの土俗の鬼霊で、六ヶ月前に人の死を知り、肝とか心臓とかを食う。
 おそろしい存在ながらも、ひとたび法によってなだめれば行者を即身成仏させるという。』
『豊川稲荷の境内に入ると、赤提灯や赤幟の列がいかにもお稲荷さんで、香煙がたちのぼっているあたりだけが、神社と異なっている。それに、神社のように余白を重んずるところがなく、お堂やらなにやらが建てこんでいる。
 お堂には、
「荼枳尼真天」
 という扁額がかかっている。あちこちでおがんでいる婦人の顔つきが斧のようにするどくて、行者をおもわせるほどにさし迫った感じがある。このあたりも密教的で、神社のお稲荷さんのほがらかさとはすこしちがっているように思われた。』

 ふ~ん、荼枳尼天ってずいぶんとまあおっかない神様であるらしい。けど、大岡忠相が尊崇した神様だ、ご利益があるのだろうと思いつつも、写真撮るのに熱中してお参りするのは忘れてしまった。どうか罰が当たりませんように…ナンマイダブナンマイダブ…。ちなみにナンマイダブっていうのは「南無阿弥陀仏」からきてるんだろうなあ、きっと。さすがに稲荷だけあって神の使いとされる狐も、巻物くわえていらっしゃいました。

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# by tigers00 | 2005-03-27 21:50 | 散歩